ダヴィンチ展

受胎告知【レオナルド・ダヴィンチ】「この絵は、
このような角度から見られることを計算して描かれていた・・・・」


「受胎告知」を生で見た後のこの作品についてのPVを見たら上記のような解説が飛び込んで来た。
その他にも、正面からみると何が描かれているか分からない絵が、その絵の角度を変えると
はっきりとした絵が浮かび上がってくるものがいくつか紹介されていた。
かなりの衝撃を受けた。

この絵はダヴィンチにとってデビュー作と言われるもの。
とても20歳が描いた作品だとは・・・・

ダヴィンチ展へゆき、「受胎告知」に出会うまでに待つ事約1時間。
しかも立ち止まってゆっくり見れる時間はない。
その絵を見ていられる時間はせいぜい10分くらいなのだ。
立ち止まって好きな場所から見る事もできなかった。

でも、展示会場に入り、人の波の中からチラリと見せたその姿を見た時に・・・・

鳥肌?とは違うようなーゾクゾク感?まるで全身の神経が何かを感じている・・・
そんな反応が全身を駆け巡った。

人の波の流れにゆっくり合わせながら、自分の側に徐々に近づいてゆく。
音声ガイダンスを聴きながら・・そこに居る人々は皆、一点を見つめながらゆっくり移動して行く。

ようやく自分の目の前にその絵が現れた。
手をのばせば触れれる距離だ。
遠くから見ていてもその絵の美しさは十分であり、感動させられるけれど、
目の前に現れたその絵が、油絵独特の筆の跡、盛り上がりなどを見せてくれる。
これが・・・500年以上も前に描かれた絵なのか・・・と思うくらいの迫力。
いつまでもこの場所に留まっていたい・・・・・
本当に動きたくなかった。いつまでも気の済むまで見ていたかった。

この人ほど、絵を描くということにこだわりをもった人がいただろうか・・・
と思わせるくらいの研究してきた 物、事の数々、そして広がって行く万物の研究は終わりがなかったのだろう。

人はなぜこうなんだろうーとふと思う。
けれど答えが分からないことは考えるのをやめてしまうことが多い。
知りたいけれど、答えが見当たらないことが多い。
実際に今生活して行く上での日常には直接関係ないから・・と気に留めなくなってしまいがちだ。

探求しつづけていたとしても
もしかしたら、答えは正解が見つからないかもしれない
自分なりの解釈で終ってしまうかもしれない。
自分の中でそれぞれが思いつくところが正解なのかもしれない。

でも、それを考えたり思いを巡らせて行く中で思い浮かぶ感情や感覚、考えの積み重ねの過程が、
実はとっても重要なことだったりするのかもしれない。

ダヴィンチ展を観覧している中で、頭蓋骨の中についての手稿の中に
現在読んでいる本の中で書いてある文章と同じ意味を指す内容があった。

時代が違っても、違う国に住んでいても、全く違う文化、経験をしていても
追求していった中で思い浮かぶ答えが同じようなものになるということがよくあるように感じる。

彼の作品を見たり、考えていたことや研究している内容の考えなどを読んだりしていると
はじめはほんのささいな素朴な疑問だったことを自分の中で結論が出るまで探求し続けたり
あるいは、本当に形にしたりしてきたようすが思い浮かぶ。
なぜだろうー?を自分が納得するまでこだわりつづけた人なのだなと思う。
そして、それらが彼にとっては彼の中での納得がいく絵を描くためのことにすべて繋がって行く。

そして、その彼の人生が今日行きている私たちに見えないメッセージを残してくれているのだと感じる。