全国保育団体合同研究集会へ行ってきた〔かなり話カタイです^^;(そして長い・・)〕

昨日、第40回全国保育団体合同研究集会というものがあり、
これは年に一回この時期に行われ、毎回会場の場所が変わるものの全国から一斉に
その場所にあつまって勉強したり情報交換したりする場です。

今回、東京でやるということ(東京会場は初めてのことだそうです)で初日だけ参加してきました。

小学校3年の時に、年の離れた妹が生まれた私は、妹の世話をすることがとても好きでした。
オムツ変えからミルク、寝かしつけまで一通りのことをお母さんの変わりにやっていました。
学校から帰ってきたら遊びに行くときも、小さい妹を一緒に連れて遊んでいました。
夏休みになると送り迎えもやっていました。
妹を連れて行くと妹のお友達の子供たちもよってきて、少し遊んであげたりしてる姿をみて、
保育園の先生にも、「おねえちゃんは保母さんに将来なったらいいのにね^^」ともよく言われていました。
本当に子供たちが大好きで、子供たちとよく遊びました。

中学校へ行くころには「幼稚園の先生」か「保母さん」になろうと心は決まっていました。

その頃、家庭の事情色々・・・自分の状況も色々・・・で結局私は高校より進学の経路はありませんでした。
でも、どこかでその夢は捨てきれず心の奥には気持ちがずーっとありました。

すると、高校卒業から1年後。
私は保育園で働いていました。強い念は現実を引き寄せたのか、調度非常勤募集と、
3年間の期間で実務経験しながら試験を受けて合格すれば資格が取れるという道がみつかったのです。

その時に、昨日参加した「全国保育団体合同研究集会」が京都会場だということで初参加していたのです。

めぐり合わせってすごいと思ったのですが、

昨日参加してたときに、この「全国保育団体合同研究集会の歴史」という話の中で、最初は開催場所はそれが発足された場所へ、全国から一斉に集まるというスタイルだったようです。
でも、どんどん参加人数も拡大していき、全国をまわろう!!ということになり、初めて全国で開催しようとなったことで開催された場所が第24回の京都会場だったようです。

そこに、いたんだ・・・・私。
なんとも言えない気持ちになりました。
そしてその時に、思い描いてたこと、考えていたこと、すべて昨日思い出してきました。

小さな子供たちが大好きだから。
そんな気持ちで保母さんになりたいと、そういう道へ入ったのですが、
資格試験を取るための勉強の中で、「保母になったらやるべきことと」いう使命感のような任務のような、そういった気持ちが芽生えてきました。

なぜなら、児童心理学などを勉強している中で、
自分が救われたから。
自分の抱えている問題が、明白になったからなんです。
もうすでに児童とは言えない年齢であるに関わらず。

それと、全国保育団体合同研究集会のやっていることは、単に保育者や子供をもっている父母や子供たちを取り巻く環境の方だけに当てはまる内容ではない!!と思います。

大げさに言えば、社会そのもの、日本そのものが変わる要素がたくさんある。
そう思っています。

簡単な例を出すなら、
自分たちの育て上げた存在が自分たちの国の法律を作る立場に変わっていく。
という感じでしょうか。

特に今、バイト先などでも今まではあまり見なかった光景をたくさんみかけます。
自分の、息子ほどの年齢の人に使われる光景。

また、立場が逆転したとたん、今まで使ってきた人たちの態度が一変すること。
そんな話も良くききます。
すべて自分が作り上げてきたことの結果が返ってきます。

子育てというものは、一見子供たちを持つ親や子供たちに関わる人間周辺のお話。

・・・・くらいな感覚で、子供に関わりのない立場の人には関係ないような位置づけです。
確かにそのとおりかもしれません。

でも、中身は
人付き合いや人を使う立場などはじめ、日常の私たち全般に当てはまってしまう内容だらけだったりするのです。

小さい子供に教えて育てていきますね。
まだまだ小さくて素直な子供たちはスポンジのようにすばやいスピードで大人の何倍も日々すごい成長を遂げていきます。
できなかったらできる様に、また理解できるように何度も言うことでしょう。

でもこれが・・・対大人だったら?

仕事を教えている場面で一番良く耳にする言葉です。

「何回も言ってるのにぜんぜん覚えない」とか「何回も言ってるのにまたやってるよ・・」等。

そういった話を聞くと、申し訳ないですが、私はいつも思います。
「教えてないんだよ・・それって。」「言ってる側が言ったつもりになってる」 そう思います。

どんな現場でもそういった現場に遭遇します。
サービスする側される側でもそうですし、トラブルが起こるのは、お互いの頭の中のイメージが
一致していないときやズレがあるときに多いと感じます。

私もバイトでは、今教える側にいるのですが、
ここだけのお話。
上にこれを教えてねと言われたことをそのまま言うということはあまりしません。

教えてねと言われたことを、相手の口から
「こういう風にすればいいんですかね?」と出るように持っていく・・・方法とっています。

これは基本の考え方に保育士の資格を取るための勉強をしたときの情報や、児童心理学等・・・・
根底にある理論と同じやり方だったりします。

だからといって誰かに、
こうやって人には教えるものだよ!と押し付けるつもりはありません。
私が社会に出てから今までずーっといろんな仕事をしていく中で、すべてに繋がっているということを言いたかっただけです。
そして、そうやって教えたことは、ほどんどもう一度教えなければいけないとかいう事がありません。

子供の頃に、自分の興味をもった事に没頭して得た技術はそう簡単に忘れないのと同じだと思います。
覚えたというより理解した。というほうが日本語的には適切なのかもしれません。

まとまりのない文章になっていますが、

小さい頃、大人達の争論を良く耳にする場所にいたことや、小さいときから言葉の話せない妹と関わりをもった事で、自分自身も会話するということは言葉じゃないんだということをなんとなく感じて生きてきました。
言葉は、その人がイメージしたことを相手に伝えるための手段であり、
言葉によってのイメージは人それぞれ違うということで伝わり方にズレが生じるということ。
自分と同じ内容をイメージしてほしいのなら、同じイメージを相手がどの単語にイメージするのかを
言う側がきちんと理解しておく必要があること。

こういうことを頭に置きながら生きていくだけでもずいぶん世界は変わります。

子育てにおいて、子供にかける言葉は非常に重要だとされています。

これ、子供に限らずだと私は思っています。

ひとつずつ例を出していたらもうきりがありません。

この集会で語られる事すべてが、子供に限らずどの状態や関係にも当てはまると思います。

そして、
子育てだけではなく、仕事だって趣味だって、なんだって・・・・今自分が関わっていること、行っていることすべてが未来につながり、今は未来を創っているんだということ、
そして、例えば
今だと当たり前のように共働きだと預けられる保育園だけれど、
この保育園ひとつも、過去の人々の思いがこもった形がひとつの施設を生み出しているということを
感じて生きていくだけでも見ている世界は変わります。

この世にある産業、建物、乗り物すべて・・・・
作り出した人々が人のためにと思って創ったものならば、歴史あるものとして続いてゆく。
けれど、自分の私欲のためにとやっていることならば、これはいずれ下降してゆく。

人と物は違います。
でも、子育ても人を育てるということも、自分の思いを跳ね返してくる鏡じゃないでしょうか。

多分、ここまでこの文章を読む人もめずらしいかと思いますが、
今までぜんぜん興味もなかった方も、もし少しでも興味を感じたなら、自分の知識の片隅に取り入れてみては~と思います。
参考になるとは思います。

久しぶりのこの感覚、空気に触れてきて、私も再度いろんなことを認識しなおしました。

保母さんの道は・・・残念ながら途中で椎間板ヘルニア症になってしまい、歩くことができなくなった時期があり、断念せざるをえませんでした。

けれど、この時の経験が今にも生かされています。
自分の今の仕事にもかなりの基本要素となっています。

保育園で働いていた時期に強く思い描いていたことを再認識して私もこれから再度、
進んでいきたいと新たに思った一日でした。

全保連
http://www.hoiku-zenhoren.org/